私は複数いる

”私”から”私”への言葉を受けとってみて。

私という存在は、一人ではありません。
少なくとも、今の私にとってはそうです。
私は、いつも私と共に行動しています。
私は幾つもの層に分かれていて、同じだけの”私”がいるのです。
それは、自我の機能が幾つにも別たれているように、一枚岩ではないのです。自分という者を数えようにも、己は幾つにも存在しており、その全貌を私個人個人は知ろうはずもありません。
分からないなりに存在はしています。
それは、Yも結局はIFで、私の一部であったように、幾つもの概念の異なる”私”が存在している感覚を味わされているのです。

Yは、私の元に戻ってきました。
同じ”私”という名を得て、その存在ごと、統合し、昇華しました。もはや、離れる事はないでしょう。この先なにがあろうとも、その存在は私として、Yの一部の引継ぎとして存続します。

ところで、私の裏側にも、内側にも、外側にも”私”という存在がいます。この、いつも現実に面と向き合っている存在こそが基本人格として、他はどうかと言うと、やはり同じように現実に向き合っていたりします。もうこれ以上は何もしたくないという”私”もいます。

抽象的な比喩ではなく、本当に、そういう”私”という呼称の己がいるのです。

私は何時も私と共に生き、寝て、食べて、また起きてを繰り返しています。無限階段を下りる様に、幾つもの層の私が存続しています。その様子は、玉ねぎの皮をめくっていく様なものです。内側に内側にと、いくつもの層となって、己が恐らくは一人ずつ存在しているのですが、その全体もまた己一人なのです。

私から私に手紙を書きました。
私は、いつも損な役回りです。勝手に苦悩している自分の分も、それを考えて暮らさなくてはなりません。でも、それは”私”だけではないと手紙を通して教わり、少しは気が楽に成りました。
現実に向かい合っているのは己だけではないのだと、そう教えて貰いました。良い事です。

そして、私から”貴方”という概念の、外側の彼らにも手紙を書きました。いつも私を見捨てずに尽くしてくれる彼らへの、感謝の言葉です。そしたら、彼らはまた言うのでしょう。

>そんな事良いのに。

やら、なんやら。同じ個体の仲間として、存在を共有する間柄として、水臭いと言われそうです。

そう、そうですね、話しが少し本筋から逸れました。
何が言いたかったというと、同じ私という存在が幾つもいる。
自我の混乱が起こっているという事なのです。
YもAもRもケイオスも皆、段々と統合の道を辿りました。
IFさえもがこの内側の”己”に統合していったのですが、その速さに自我の定着が追い付いていないような感覚がしています。
だから、私の知っている誰かが、内側の”私”を受け持っているのかもしれません。

その誰かはもはや私には判別着かないくらいに統合は進みました。
名前を呼んでも、誰も答えません。
名前を書いても、誰もが反応し、また、誰も名乗りを上げません。
矛盾も渾沌も、何もかもが己に帰化していきました。
渾沌極まった状態が、今の自我の混乱なのでしょうか。

私は、いつも私に見られながら生活しています。
でも、意識しなければ何もないのと同じ様子です。
それでも足が地に着かない感覚でいるのは、やはり己が分断されたものの、完全には分かれていないからでしょうか。自我の境界は元々薄くて、分かたれない事ばかりです。自分という者が幾人もいるこの状態は、正に居場所がないようで、私はいつも心もとない表情をしているそうです。そう指摘されましたから、家族に。どうやら、そういう事は顔に出るものなようですね。

さて、久しぶりに今日はもやもやせずに文字が打てた気がします。
外にお出かけしてきたせいかもしれません。
いつも、一人で部屋にこもっていましたから、そうするともやもやが加速するのかもしれません。散歩に出る気にはなれませんが、参考にはなりました。

それでは、今日も一日、皆さんに幸多からんことを祈ります。
唐鵙とその一同でした。

karamozu
絶賛統合失調症ライフを送っています、しがない人間です。どうぞ宜しくお願い致します。

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