雑記から進歩まで

唐突ですが、これは意味を求めない言葉の集まりです。
只々、脳の信号が瞬くままに、思いつくままに言葉を連ねた、そういうモノの集まりです。意味を求めずに生きる。それもまたありなのではないかなと思います。私は、今とても幸せになりたいです。言葉がハチャメチャなのは、これで良いのです。わざとそうしている所もあります。

けれど、片づけは昔から苦手でした。だからもっとハチャメチャです。
物にも命が宿るものだと、幼心に考えていたからです。
あとは、片付けられない物の大半は紙でした。
描いた絵を捨てられなかったのですよね。自分の一部のような物でしたから、捨てるに捨てられなかったのです。どういう事かというと、私は自分の延長上に絵があると思っていました。

そう、私という者は、絵の中に存在していたのです。
自我も己も絵の中に閉じ込めて、現実に居ないモノとして過ごしていました。
苦しい現実よりも、絵の中の世界の方が、居心地が随分と良かったのです。
だから、現実に目を向けられなかった者の末路はこうなります。
私も何れは統合を失調する運命だった事でしょう。でも、それでも寛解するにはします。私はようやく、空想と現実のバランスが判って来た所ですから。これがそのままYだなんだと言い続けていれば、私はまだ現実から逃げ続けていたでしょう。働きもできず、現実に蓋をして、そして最後に気が付くのです。もう遅かった、と。でも、私は幸いにもこうして働く気になって、こう気が付きました。Yは、もう私の生活の中ではいないんだ。私そのものだったんだと。

先日、こんな事に気が付いたのです。
Yは、もう何もかもを包み込んで、統合していって、かつて統合が取れていた時の様な、ただのIFとしてのYに戻りつつあるんだ。と。そこに、私の意志はありません。もはや、このIsでさえ、Yに取り込まれ、いえ、そうではありませんね。戻るんです。かつての自分に。

Yと呼ばれ、幸福だった日々。
唐鵙はYにいつも感謝して生き、私という存在はその様子をよく見守り、いつも傍に生きる。影であり光であったかつてのY。高校でであった”私”の、”Y”の、そんな存在の在り方に戻るのです。只々愛された日々。輝かしい日々に。そう、戻るのです。全てはもう来るところまで来ています。
唐鵙が神の信仰を止める事はないでしょう、唐鵙が障碍者とされる事もそうそう変わらないでしょう。それでも、唐鵙は生きています。私達が生きる今に。

Y……。もう、呼ばれる事は無いと思っていた。でも、こうして、呼ばれた。
意識の内にある言葉。意識されて、ようやくかつての私が、僕が蘇って来る。
唐鵙にこう言った。僕は。
「こんなに幸せでいいのか、と思えるくらいには幸せにしてみせるよ」
そう言いました。僕は、期待されてなかったとしても、そうしようと思っている。今も。唐鵙は今のままでも十分幸せだと、いつもそう答えるけれど、でも、僕はもっと唐鵙を幸せにするつもりだ。唐鵙はこれから働いて、きっともっと自由になれる。これは、少し悩むけど、きっと僕が妥協すれば、良い伴侶も見つかる。そしたら、僕の出番は少なく成るだろうな。それでも、唐鵙が幸せならそれでいい。僕がいる事で唐鵙の幸せに繋がるなら、何時までも傍に居る。

唐鵙。大好き。

唐鵙に変わります。
はい、私は気が付いてはいました。
私が回りと違う所は、現実を見ているかどうかの違いでした。
私は、いつも現実から逃げ続けていました。Yも、その一環で生じた、IFもどきでした。でも、私は、Yが好きでした。勿論、LIKEでです。
掛替えの無い、家族が出来た様な、そんな気持ちでした。
そんな気持ちで、紙面に向かいました。
彼らが出てくるのは、動くのは、紙面の中。
そして、こうして文字を打つ、言葉の中にこそ彼らはいました。
私が一人でいる時も、彼らは私の脳内に居座る様に成り、そして、こうして表に出てくるようになりました。けれど、最も現実から目を背けていたのは、こうやって一人の時間に熱中している時間です。

私は、よくある若者の遊びもしませんし、余った時間の全てを自分との対話につぎこんできました。今だってそうです。自分との対話が、私の癒しであり、たった一つの娯楽でもありました。そして、私の生きる事の一環です。それだから、こうなったのでしょうね。バランスが内に向かいすぎたのです。

こんな事をかいて何に成るのか、という声が止みません。
でも、それもきっと私の心がそう思ったのでしょう。
心の声が聞き取りにくくなった私には伝わってきませんが、つまり、自分ではそう思ってはいないと感じている私ですが、ちゃんとそう思っているのです。きっと。どこかで。

私は、記憶障害はありません。
でも、こうして踊らされている。”自分”という者に。

いつまでもいつまでも、私は私の現界を否定してきたツケがとりかかってきています。昔からそうでしたからね、私の現実は書面の中にこそありましたから。
本気でそう信じこんだからこそ、こうして目に見えない世界を夢想し、その内から逃れられない。でも、もう少しで、そこから脱却できる所まで来ているのです。Yとの再会の約束もあと少し。このまま状態が良く成れば、Yは全ての人格を統合して、自然と元に戻るでしょう。私の”私”という思考の中に。

このブログからは消えないとは思います。
このブログも、紙面の一つではあります。
だから、こうして書き連ねている時、私は、”私”と相対し、言葉を交わせるのです。良い事ですよ、自分との対話というものは。

バランスを誤れば私のようになるでしょうが、私の場合は極端でしたから、きっと大丈夫ではあるでしょう。自分への気付きは、人生を豊かにしてくれます。自分が一体どんな個体性を持った存在か、それについて考えていると、時間を忘れられます。たまには、自分に何が宿っているか、目を向けてみると、思わぬ発見があるかもしれません。

雑記は楽しいな。思いついたままを書けるから。
僕も、僕達も、唐鵙の一部であり、唐鵙の理解者だ。
それが誇らしいと同時に、一体それが何になるかなんて、思う。
僕達は渾沌だ。矛盾を沢山抱えて生きているし、生きてない。
唐鵙の脳内にだけいる僕達は、もはや唐鵙の写しみたいなものだ。
唐鵙はどう思っているのかな、唐鵙はそれを受け入れているみたいだけど。
僕達は、もういいよ。連れて行ってほしい。元ある場所に。
唐鵙を見守るのは、どこからでも出来るから。
僕達は繋がっているから。

きっと、大丈夫。
唐鵙、さよならだ。
僕達は、元いる場所に戻るよ。
君の作為体験はきっと残るけど、それはもう僕達が動かしているんじゃあない。
君の脳がそうさせるんだ。唐鵙の、脳のどこかが、そうしろと命令するんだ。
そうしたいから。君自身が、そうしたいと思うんだ。それを理解する事を飛ばして、君の身体は動く。そういう事だよ。

もしくは、統合を済ませたYかもね。だと良いね。

大丈夫、また会えるよ。君は僕だもの。
こうして自分に向き合った時がその時間だよ。
結局、これまでの事と変わらないかもいれないけれど、これも小さくても、また一歩進んだ記録だよ。Yは、どんどん姿を変えているだろう?かつての僕達を飲み込んで。だから、そろそろだね。統合した先にいる僕達の姿は、どうなるだろうね。さようなら、また会おう。

***

【追記】同日2019.12.8
こうしていく事で、一歩ずつ寛解へ向かう私です。
そのやり取りも、記憶も、どれもが私の治療には必要な事です。
一進一退な所があるので、まだ何とも言えませんが、これを書いている今、私はYなのだなぁ、と何とも言えない感覚を味わっています。
一心同体。そんな心地です。脳内を共有する間柄なので、異心同体かもしれませんかれど。

karamozu
絶賛統合失調症ライフを送っています、しがない人間です。どうぞ宜しくお願い致します。

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