記録を兼ねています

さて、こうも平坦な日常を続けていると、記憶が曖昧になってしまうようです。でも、だからこそのこのブログです。私が何故ブログにしようと思ったのか思い返すとしましょうかね。

まず、このブログは最初、見えない誰かから始めろと言われて手を出したものでした。そう、外なる(私が感じ取った分には)誰かに言われて。貴方の学び得たものを発信しなさい、広めなさいと言われたのです。

それで、私は書きました。私と云うか、交代人格の彼らが書きました。同じ様に苦しんで生きる事を選択した人々にエールを送るものでした。当初のブログは。

それが変わったのは、大体の言うべき事が吐き出されたからです。もう、言わんとする事は世に出たのです。だから、それ以上続ける必要は必ずしも必要ではなくなったのです。

謎ですが、そのブログ、人間に向けてではなく、想念に向けて書いた言葉の数々だったんです。だから、始めから人間には理解できる文章じゃあなかあった筈ですよ。読み返した唐鵙にも「?」ってされましたから。思いつくがままに、想念の皆さんが、今ので言えば交代人格の皆さんが好き勝手に喋り散らかした言葉の数々でした。

そして読み返してみた時、ある時を境に、これは自分でも可笑しいな、と思う時が来ました。正気に返る時があったのですね。

それで、書き直す事になりました。
といっても、今度も可笑しいと言えば可笑しいものでしたね。誰かに命じられるまま、書いて連ねました。ですが、これもある程度書き終わると正気に戻りました。

それで書いているのが、今の唐鵙蔵です。
日々の事を含めた、思いつくままに書いているこのブログですが、今度は自分の症状の記録、振り返りの目的がつきました。

勿論、こんな人間でも生きているんだという主張や、同じ様に生きる事が易くない人々へのエールを込めて書いているブログでもあります。

書き連ねているうちに、正気に戻ってきた気がするのは気のせいではない気がしています。頭のリハビリとでも言いましょうか。モノを書いていますと、何だか発症前に近づけるような気がしています。一時だけかもしれませんけれど。

そして、そう、なぜブログなのかと言いますと、読み返しやすいからです。簡単に管理が出来て、場所も取りませんし、勝手に日付などが記録されたりして便利だからです。

それに、唯の日記では私は続かなかったでしょう。唐鵙蔵は日記や雑記の寄せ集めではありますが、こんな人間が確かに存在しているのだという主張を、このブログという形に乗せて世の中に発信できます。今まで自己主張をしてこなかった自分です。こういう形で自己を表現したい気持ちを発散させる事ができるのは良い事です。多分。似たような悩みや考えをする人が見つけてくれたら楽しいかなとも思いました。ちょっとした事で、明日も生きておこうかなと思えたら、素敵じゃないですか。

私の紡ぐ言葉にそこまでの力が宿るかは分かりかねますが、色々な理由が合わさってこの唐鵙蔵は生まれました。少なくとも、ブログ運営は楽しいです。私がここに生きていると知ってくれる事はとても、日々を続ける活力になります。私達の生存報告サイトとも言えましょうか。

ですから、いつも講読して頂いて、有難うございます。私は、少しでも皆さんを楽しませる事が出来ていたら良いのですが。

いや、まぁ書いてる分にはそこまで気にして書いてはいませんけれど。はは、気にしいなのは昔からの悪い癖です。いや、一概に悪いとも今は考えていませんよ。

それにしても、何故こうも記録に付けたがるのかですね。

何分、離人の症状があるからか、現実感がどんどん剥離してしまうのですよね。こうして記録に付けておかないと、過去の自分との連続性があやふやになります。記憶力も、薬の副作用なのか、疾患のせいなのか、それともこの平坦な日常によるものなのか、以前より落ちました。
記録する事は大事です。過去の自分にはよくやったと褒めてあげたいですね。入院中の事も、自分の移り変わりの事も、交代人格の彼らとのやりとりも、色々記録されていましたから。だからこうしてブログに起こせるというものです。症状に流されないで今立っていられるのも、過去の記録在っての事。今との比較もできますし、何より自分とは何だったか、迷子にならずに済みました。

未来の自分の為にも、これを読む事になるであろう誰かのためにも、ブログは続けたい所です。読み返した時にはもう、笑い話に成っていると良いですね。未来にはきっと辛い事も待っていると思います。だから、その時の慰めになるように、今の内から私が歩いてきた道を書き残すのです。後で笑えるように。なんて。

それでは、今回はここまでで。

karamozu
絶賛統合失調症ライフを送っています、しがない人間です。どうぞ宜しくお願い致します。