死は怖いでしょうか。

死は怖いか? と、聞かれた私がいます。こんにちは、こんばんは、唐鵙です。
名前は要らない。という御仁からです。そう言われたのは。私は、死は、そうですね、一言でいえば怖いです。ですが、それは漠然とした怖さではなくて、愛する、残された者との永遠の別れが来ることが、苦しく、悲しい事だと思うからです。

一応述べておきますと、死と、死までの苦痛は別物として考えています。延命治療は今のと所望んではいませんが、家族が私をまだこの現世に引き留めておきたいというなら、さよならのタイミングは先延ばしにしてもいいだろうかと考えています。

と。たとえあの世があったとしても、きっともう今生で出会った誰にも会う事は叶わないのだと、漠然とですが、そう思えるのです。

そして、一番不安に思うのは、そう、不安。恐怖ではなく、不安といえるのは、自分との別れです。誰しも、自分を捨てる時がやって来ます。それは、特別な事ではなく、当たり前にやって来る、死の瞬間です。

例えあの世があったとして、もう同じ自分ではいられないでしょう。意識は真っ暗になり、もう二度と何かを感じ取ったり、悲しむ事も、喜ぶことも、不快に思う事もない。

私は、幼い頃に一度気を失った事が有ります。だから、なんとなく死ぬ時に何も感じる事なく、暗闇に意識が放り出されて終わる事がイメージできます。目覚めがなければ、永遠に眠ったままなのです。意識も、無意識も。夢など見ない、真っ暗闇です。その暗闇を目にする事すらないでしょう。あの時は、意識が戻って来た時に、ようやく暗闇も、周囲の音にも気が回りましたから。

ですから、それすらもない。
完全なる無の境地です。

なので、死んでしまった後、世界は続くのか分かりません。けれど、死は、不安なのです。
恐怖ではない。けれど、強い不安を私達に齎します。大事な人との別れは、必ず来るものです。その時まで、せめて後悔の少ない様に、自分や大事な人を見失わずに生きる事が不安を軽減してくれます。だから、私は、私である事を放棄しません。いかに不器用で、生きにくい己であったとしても、これが私です。唐鵙という名の、一人の人間の一生。そして、交代人格達との一生なのです。彼らとの別れもやがて来るのでしょう。死はきっと、我々をも別つでしょう。その時まで、私は彼らとの歩みを止める気はありません。

「唐鵙、死なないよね? 君。」/誰か

自死はしませんよ。自死は。
ただ、他の死に方については、私には解りかねます。ただの、一般の人間なので。
これからどんな事があっても、最期まで生きる道を模索します。こうして、日々の私という個体の記録をして、世界にこんな人間がいたのだという今を刻み付けてやるのです。
そして、いつの日か、私がもっと老いた時、振り返るのです。荒れた道でもよく歩いてきたものだなぁ、と、そうクスクス笑いたいものです。ね、私。

もっと死が傍に来た時間にいる私に呼び掛けます。どうですか、そちらの具合は。こちらは、まぁまぁ気分よく書いてますよ、色々。この記録達が、貴方の、ちょっとでもいい。安らぎや、退屈しのぎや、助けになっていると良いのですが。笑い話の種にもなりませんかね?

私も何れそちらに伺いますよ。また。こうして未来の自分に語りかけるのも楽しいものです。そちらの私の心情など知れる術もないですが、まぁ、それなりでも、良くなくても、「まぁまぁだよ」と貴方は言うでしょうね。

Y達とは今も一緒にいるのでしょうか?もう思い出した時くらいにしか、彼らの存在を感じる事はないですか? それとも、今でもちょっかいをかけられていますか? どちらにせよ、貴方の暮らしが息災であるように、私は願っていますよ。

「僕達も、そう祈ってる。元気でね、唐鵙/Y、一同」

さて、死について考えるのもたまにはアリですが、今は生きる事に目を向けませんとね。まだまだ死は迎えに来そうにないですからね。「いつかは迎えに行くか」と、そうは言われましたが。それでも、まだでしょう。

Y達がまだ来るなと阻止していましたよ。
まぁ勿論、これも私の頭の中、別たれた自我の領域で起こっている事なのですが。
とはいえ、死を考える事は、生きる事を考えるのと同義。私はどう生きて、どう死ぬのでしょう。いつまでも、自分を失くさずに最期を迎えたいものです。それでは。

【追記】2019.10.30
死は怖いか?
唐鵙に問いたい。死は、怖いか?
「どうでしょう。今の所は、分からないとでもしておきましょう」

karamozu
絶賛統合失調症ライフを送っています、しがない人間です。どうぞ宜しくお願い致します。